蕪栗沼の歴史

 歴史年表


○縄文時代早期末

古松島湾の最内陸部に位置し、海底に堆積した土砂(沖積層)によって平坦な土地が形成された。


○縄文時代前期

 海岸線の後退により沼の淡水化が進む。長者原貝塚(登米市南方町沼崎)が形成され、イシガイやオオタニシなどの淡水貝類、マガン、オオヒシクイの骨が中期の層から発見される。


○縄文時代後期

 海岸線までの距離は10〜15kmと推定され、中沢目貝塚(大崎市田尻蕪栗中沢目)からはブリ、マグロ、マイワシなども、確認されている。鳥類はマガン、ヒシクイのほか、タンチョウ、大型のワシなどが発見されたが、ガンカモ類が70%と大部分を占めている。


このように古来から、現在と同じようにガンカモ類の重要な生息地であったと推測される。平安時代までは長者原貝塚が使われており、人々の生活も変わらず続いていたようだ。


○730年(天平2年)

 続日本紀によると、田夷村(現在の大崎市田尻町付近か?)の蝦夷が反逆心を捨てて教導に従ってるので郡役所をつくって公民にするとある。すでに陸奥国には大和人が多数移住していたが、東北の蝦夷の中にも大和朝廷に加わる動きがあった。


○737年(天平9年)

 多賀城にいた1000人の軍勢が山中と海沿いに街道を整備した。玉造柵(大崎市古川)、新田柵(大崎市田尻)、色麻柵(加美町中新田?)に駐屯地が置かれた。


○780年(宝亀11年)

  蝦夷による焼き討ちが相次ぎ、伊治公呰麻呂の乱をきっかけに蝦夷との戦乱時代になる。789年の衣川の戦いにおける敗北を経て、802年のアテルイ降伏でひと段落する。


○837年(承和4年)

  火山活動によって鳴子温泉が突如湧き出る。864年に富士山が、871年に鳥海山が、915年に十和田湖が噴火する。蕪栗沼周辺に火山灰地層が見られる。


○1590年(天正18年)

 葛西大崎一揆が発生。鎮圧後の検分を記録した登米藩史稿によると「入封の事僅かに定まるや封内を管見するに、文禄以来十有余年争乱相つぎ寧日なく、殊に葛西一揆の際市民屋兵火に罹り、田園荒廃して影の認む可きものもなく、加うるに北上、迫の二大河川郡内に氾濫して広大なる原野に田園を見ず…」という様子が伝わっている。


○1605年(慶長10年) 

 伊達藩川村孫兵衛重吉による北上川の大規模な河川改修が始まる。北上川の本流が移動され、蕪栗沼の下流は北上川から迫川となる。北上川・江合川・迫川が合流し、舟運と周辺の新田開発が進む。


○1640年代(正保年間)

 奥州仙台領絵図が描かれ、蕪栗沼には長二八町、横一二町、深一丈五尺(東西3km,南北1.3km,深さ4m)と書かれている。

 田尻町史によると江戸時代初期、蕪栗沼は「毎年、藩主への献上の御用鳥を捕獲する御留沼で、課役を賦課されぬ」と記載されている。


○1671年(寛文11年)

 涌谷伊達家と登米伊達家の間で谷地騒動をきっかけに伊達騒動が起こる。


○1761年(宝歴11年)

 仙台藩の儒臣田辺希文が編纂した封内風土記に「もと沼辺に大栗林あり、其の実は拳のようで、味は甘美、蔓せいのようであった。世人は葛のせいをせい栗といったので、この名が出た」とあり、蕪栗の地名の由来の一端を知ることができる。


○1776年(安永4年)

 安永四年風土記御用書出には「当村の熊野神社近くの畑に植えた蕪は、栗のような風味があったので、神名を蕪栗明神として崇め、やがてそれを村名に名付け候由、申し伝え候事」とある。


○1911年(明治44年)

 1931年までかかって新北上川が開削される。また1932年〜1940年に新迫川が開削され、蕪栗沼の下流を流れるのは旧迫川となった。洪水の危険性が減り、蕪栗沼周辺の大規模な新田開発が行われる。


○1920年(大正9年)

 不要存置令によって御料地が払い下げられる。蕪栗沼は明治維新によって御料地となってた。


○1923年(大正12年)

 迫川右岸の下谷地が払い下げられ、1940年に大貫村直営で開墾された。


○1937年(昭和12年)

 野谷地地区が迫川沿岸耕地整理組合によって干拓され開墾された。


○1941年(昭和16年)

 四分区が、迫川沿岸第四耕作整理組合によって干拓され開墾された。また南方町の白鳥毅ほかによって白鳥地区の耕作が始まった。


○1942年(昭和17年)

 蕪栗沼自作農創設未墾地開発事業によって、移住者53名、準移住者52名が主体となって、当時350haあった沼の南半分伸萌地区162haが干拓され開墾された。


○1947年,48年(昭和22,23年)

 カスリン・アイオン台風により干拓地が壊滅的な被害を受ける。また過度の干拓によって沼の貯水能力が低下した結果、下流域を含め周辺家屋に大きな被害が出た。


○1954年(昭和29年)

 蕪栗沼遊水地整備計画が発表される。


○1966年(昭和41年)

 台風4号により夏川が決壊し、野谷地、一ノ曲に水害。


○1970年(昭和45年)

 蕪栗沼遊水地事業が着工される。


○1990年(平成2年)

 野谷地地区移転のための宅地造成事業が始まる。


○1995年(平成7年)

 天然記念物マガンの飛来が多数確認され、宮城県猟友会による銃猟の自粛が始まる。


○1997年(平成9年)

 蕪栗沼遊水地懇談会が開催される。白鳥地区の営農が終了する。翌年から白鳥地区に水面ができ、マガンのねぐらとして利用される。


○1999年(平成11年)

 旧田尻町で、蕪栗沼に飛来する渡り鳥による食害を補償する条例が制定される。東アジア地域ガンカモ類重要生息地ネットワークに登録される。


○2000年(平成12年)

 蕪栗沼環境管理基本計画が策定される。蕪栗沼遊水地が翌年3月に完成する。


○2005年(平成17年)

 蕪栗沼・周辺水田がラムサール条約に指定される。423haが登録され、世界で初めて水田の名を冠した登録地が誕生した。


○2011年(平成23年)

 東日本大震災により、周辺地形の地盤全体が大きく沈下する。


○2013年(平成25年)

 大崎市のキャラクターのパタ崎さんが誕生する。


○2017年(平成29年)

 大崎市の市の鳥にマガンが選ばれる。

 活動年表


1996年

任意団体として活動開始。蕪栗沼探検隊のつどいを開催。


1997年

蕪栗沼遊水地懇談会に参加。


1998年

白鳥地区の湿地復元事業を実施。マガンのねぐら利用を確認。


2000年

NPO法人に認証される。小学校で環境教育を開始。田尻グリーン・ツーリズム委員会と二万羽の雁を見る会を開催。


2002年

鳥獣保護区指定に向けた環境基礎調査業務を実施。環境省へ、周辺水田を含めた登録を提言。


2005年

ウガンダで開催された第9回ラムサール条約締約国会議に参加。蕪栗沼・周辺水田の登録証授与式に参加。


2007年

大崎市と協働して野火を復活する。


2008年

大崎市に協力し、「蕪栗沼・周辺水田保全活用計画」を策定する。第10回ラムサール条約締約国会議で水田決議が採択される。自然環境功労者環境大臣表彰を受賞。


2014年

ラムサール登録10周年記念シンポジウムを開催。大崎市民病院にヨシペレットを納入する。